…玉のお話…
玉の話は前回で終わりにしようと思っていた。そんな時、読者の方から「玉は日本人には馴染みが薄く、是非続けてほしい。」という話をいただいた。その方からは、四つのテーマまで届けられていて、「玉の歴史」、「玉石はどんな石」、「玉器の見分け方」、「玉の喜び」だ。迷っていたが、挑戦してみることにした。
第一回「玉の歴史」から始めます。玉文化は中国だけにしかない文化で、8000年もの歴史がある。玉は邪を払い、人の道を正し、死をも免れる霊力があるとされる石で、玉信仰として中国の人たちの心の中に今も生きている。お守りとして身に付けている人も多い。
玉の歴史は、新石器時代、高古期、中古期、明清期の4期に分けられる。年代を見てみよう。新石器時代は高古期が始まるまでの4000年間で、中国各地で文明が起き、その中で玉文化が栄えたのは紅山文化、良渚文化、石家河文化、斎家文化などである。高古期は紀元前2070年夏の時代に始まり、商、西周、春秋、戦国、秦、漢、三国、南北朝の時代まで。中古期は西暦581年隋の時代から唐、五代、遼、宋、金、元の時代まで。明清期は西暦1368年明の時代から清が滅亡する1911年までになる。長い歴史の中で玉文化が隆盛だったのは、強い国力と経済力があった漢、唐、清の3つの時代になる。これは、良質な玉材が西域から入手できたからだ。
では、時代順に博物館などで収蔵されている作品を中心に見ていきましょう。新石器時代には、災いから身を守るための装身具や副葬品、祭事を執り行うための礼器などが作られました。高古期になると王の権威を示すための装飾品や酒器が、中古期では仏教伝来により仏像や仏具、その他身を飾るための装飾品が、明清期になると実用目的の生活用具や文具、置物などの装飾品が作られた。この歴史を見ると、新石器時代には神秘性や神聖さを求めて玉が使われましたが、高古期になると玉は権威の象徴に変わり、やがては実用性や装飾性を求めたことになります。明清期以降の玉の使われ方は、玉本来の魅力である神聖さを忘れてしまったようで残念です。
デザインを見ていきましょう。新石器時代の品はシンプルで可愛い感じがします。写実性に乏しいところが、可愛さを生み出しているのでしょう。高古期になると芸術性が備わり、男性的で力強いデザインになり、中古期では女性的で優雅なデザインに変わり、明代に入ると野暮ったくなってしまいました。清中期の乾隆帝時代になって、やっと華麗なデザインが戻り、ヒンズー文化のデザインを取り入れた新しい作品も生まれてきました。
次は、流行した装飾紋様を見ていきましょう。新石器時代には龍や個性的な表情の人面紋が、高古期には雲、雷、繭などをイメージしたシンプルな紋様が、中古期になると華やかな花鳥紋、明清期ではより写実的で複雑な松竹梅などの紋様が流行しました。紋様の中で、私が好きなのは人面紋で、怖い顔をしているつもりでしょうが、何故か可愛く思えるのです。
最後に、道具の進歩を見てみましょう。新石器時代の道具が近年になって発掘されましたが、それは石の道具でした。固い玉石をどのようにして彫ったのか?途方もない時間と労力が求められたことでしょう。彫師の体には神が宿っていたのかもしれません。高古期になると道具は飛躍的に進歩しました。それは、商時代の青銅器と戦国時代の鉄器の発明によるものです。より緻密な作業が可能になり、作品に芸術性が加わりました。現代になって道具は電動化されましたが、それでも一つの作品を仕上げるには半月から一ヶ月はかかるそうです。
こんな話が残されています。清の乾隆帝が製作を命じた作品は、玉材が崑崙山脈の山奥から切り出され、4年の歳月をかけて北京まで運ばれ、6年を費やして製作されたという話です。気が遠くなるような話で、完成した作品は北京の故宮博物院に展示されています。世界最大級の白玉で、その価値は計り知れないとのことです。
西安では毎月のように近郊で墳墓が発見されたニュースが報道されます。その多くは漢代の墳墓で、漢といえば今から2000年も前の時代です。同時期の日本は弥生時代中期、比較すると訳が分からなくなってしまうほどの違いがあります。中国文明の高さに驚くばかりです。
次回は、「玉石はどんな石」についてお話させていただきます。 |